田澤昭吾のブログ

私の国家観・人生観をこれまでの教育現場での経験を交えて書かせていただきます。この度、ブログを甥っ子に指導を受けて、実施してみることにしました。71になろうとしている団塊世代の年寄りが、心の若返りと、憂国の思いを、人生の最後の歩みに吐露し、悔いのない日本人の生き方を全うしたい。これから皆さんと対話したいと思います。

「奇跡の天皇」に学ぶ

 新総裁に期待す

 

 九月二十日、自由民主党の新総裁に三度、安倍晋一氏が選ばれ就任しました。
  戦後の占領政策から少しずつ本来の日本の形を取り戻して行ってくれる総裁だと期待し、それを為せるのは今、「安倍晋三しかいない」と思っての事でもあります。このことは、多くの国民の期待でもあろうとも思います。 
 世界に比類なき皇室文化を国家開闢以来存続し、守り続けてきている日本を、これからも守り続け、未来に託していく日本の総理・総裁であることに一層期待し、国民の一人としてこの国のために出来ることを貢献していきたいという思いを新たにさせていただきました。

 

外国人が見た伝統の国・日本とは         

 

  さて、月刊誌『日本の息吹』二月号(平成三十年)に、「外国人が見た伝統の国・日本(1)ー奇蹟の天皇」が掲載されていました。その内容から、日本人とは何かと言うことを教えられたので、紹介したいと思います。
 筆者は、元「ザ・タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」東京支局長のへンリー・スコット=ストークス氏【翻訳/藤田裕行】です。ヘンリー氏は、英国生まれで、オックスフォード大学修士課程修了後、フィナンシャル・タイムス社入社。一九六四年、東京支局長。一九六七年、ザ・タイムズ東京支局長。一九七八年、ニューヨーク・タイムズ東京支局長を歴任。三島由起夫と最も親したかった外国人記者としても知られる方です。。
 著書に『三島由起夫 生と死』(徳間書店)、『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』『世界に比類なき日本文化』(祥伝社)他があります。
 本文のリード文として『昭和四十三年に「ロンドン・タイムズ(ザ・タイムズ)」の東京支局長として三島由起夫に初取材して以来、日本の本質を探究してきた敏腕ジャーナリストが語る、日本とは、天皇とは―』と書かれています。短い文章ながらも、迫力ある一文として伝わってきましたので、 紹介してみましょう。

 

日本では、神話がいまも生きている

 

   多くの日本人が気づかない、日本の奇蹟がある。天皇は、天照大神の末裔とされている。日本では、二十一世紀のいまも神話が生きている。神話は、終わっていないのだ。
  この一文にドキッとしました。確かに、日本は神話の世界からそのまま繋がって現実の世界へと歴史が引き継がれ、今に到っている国です。神話が歴史と繋がり生きている国柄を持っているのが日本国であり、その歴史が今年皇紀二六七七年という年を迎えています。
 他国では、神話は天上の世界の物語で、現世との繋がりまでは示されていないと理解しています。日本のように、神話と歴史が連綿と結ばれて今日があるというのは、日本の歴史上の大きな特色だと思います。
 ヘンリー氏の日本を捉える視点は、見事だと思いました。
  そして、次のようにも記しています。
     天皇は人であると同時に、神性を持った神聖なるご存在である。現人神なのだ。人間的な側面と、神聖なる側面は矛盾しない。現人神は人であると同時に、神性を持った存在を意味するのだ。
     一九四六年元旦の詔勅は「天皇人間宣言」とされているが、いったい誰がそのような「題目」をつけたのか。
     昭和天皇は、この詔勅で『人間宣言』などされていない。天皇というご存在の本質に、戦前・戦中と戦後で、何も変わることはない。
     むしろ、「天皇は、神だと称し、日本民族は他の民族に優越するので世界を支配する運命を持っている」というような連合国の「架空の観念」こそ、否定したものだった。
ここでは、天皇が現人神であるということが強調され、「神性持った存在」であることが述べられています。
  そして、ヘンリー氏は、一九四六年元旦の「天皇人間宣言」について、
    誰がそのような「題目」をつけたのか。
    昭和天皇は、この詔勅で「人間宣言」などされていない。
     むしろ、「天皇は、神だと称し、日本民族は他の民族に優越するので世界を支配する運命を持っている」というような連合国の「架空の観念」をこそ、否定したものだった。
と記しているのです。
 日本の天皇は、確かに天照大神の末裔しての神性を有したお方ですが、決して世界制覇を目論んで来たわけでもないし、そのような野望など微塵もお持ちでないお方として過ごされてこられたのです。
 「私が神々に朝夕祈っているのは、自分のことでなく、ただ多くの庶民が少しでも幸せになってくれればということだ」と謳った御製「みのかひはなにいのるべき朝な夕な民やすかれとおもふばかりを」に、その大御心が示されておられるのです。
 この大御心は、歴代天皇の大御心をお示しされている歌でもあられます。

 

「守るべきものは何か」、と命を託した三島由紀夫の決起」

 

 次に、本文の見出しに「守るべきものは何か」という箇所がありますが、その内容は三島由紀夫氏について書かれています。
  三島由紀夫について簡単に説明します。作家・三島由紀夫は、現代に蘇る文武両道の思想家でしたが、次の出来事を日本国民に示して一期とされました。
   三島は、昭和四十五年(一九七〇年)十一月二十五日午前十一時、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監の益田兼利陸将を訪ねました。随員として楯の会の森田必勝をはじめとする小賀正義 小川正洋 古賀浩靖の四人が楯の会の制服を着こんで、共に訪れました。面談中、三島一行は、突如、益田総監を人質に籠城を試みたのです。
   そして、三島は、森田を引き連れ、同室のバルコニーに立ち、自衛隊員に激文を撒き、階下に集まった自衛隊員に一場の演説を試みました。
   その内容の骨子は、「憲法改正自衛隊員が立ち上がるべきだ」という内容でした。しかし、その三島の至誠は、自衛隊員に届かずじまいでした。三島は、そのことに「見極めがついた」と語った後、「天皇陛下萬歳」と三度叫び、部屋に戻りました。そして、「益田総監には、恨みはありません」と話しかけたあと、上半身裸になり、バルコニーに向かうように正座し、短刀を両手に持ち、背後の森田に「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思い止まらせようと声を掛けたあと、壮絶なる割腹自殺を遂げました。介錯は森田必勝でした。介錯後には、森田も割腹自殺を図り、古賀浩靖が一太刀で介錯しました。
   この後、小賀、小川、古賀の三名は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両者の首を並べて合掌し、総監の拘束を解きました。この時総監は、三名の涙をみて、「もっと思いきり泣け…」と言い、「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌しました。
   午後0時20分過ぎ、三名は総監室正面入口から総監を連れ出し、日本刀を自衛官に渡し、警察に逮捕されました。(Yahoo!JAPAN 「三島由起夫 割腹自殺の全容」参照)
こうした衝撃的な事件が、一九七〇年、昭和四十五年にあったのです。今でも十一月二十五日には、三島由起夫を偲ぶ会が「憂国忌」として行われています。
  ヘンリーさんは、三島由起夫を初取材したことをきっかけに日本に関心を抱き、日本の本質を探求してきたジャーナリストとして、「あの日から、四十五年。私は、三島さんが訴えていたことは、正しかったと、そう思う」と述べています。

 

「建軍の本義」とは

 

 また、「建軍の本義」とは「いったい、何を守るための軍隊か」ということです。それを三島さんは「三種の神器」と答え、それは「世界に比類なき、万世一系天皇の皇統を守り抜くことだ」と訴えたと述べていました。
   「三種の神器」は、天照大神から天孫瓊瓊杵尊が降臨する際に賜った神器で、三大神勅と共に授与された神器のことです。一つは、「八咫鏡(やたのかがみ)」、もう一つは「八坂の勾玉(やさかにのまがたま)」、もう一つは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」の三つです。
 この三種の神器は、八咫鏡伊勢神宮のご神体として奉戴され、天叢雲剣熱田神宮のご神体として奉戴されています。陛下の元へは、この二つはイミテーションがつくられ奉祀されています。
 お鏡は賢所のご神体として祀られ、剣と本物の勾玉は、お手元に奉祀されています。
 そして、天皇陛下崩御されると同時に皇太子様が新天皇に即位されることとなり、その最初の引き継ぎの儀が、剣璽渡御の儀として宝剣と勾玉が新天皇の元へ受け継がれました。
 この儀式によって、新天皇が誕生したことになるのです。
 この儀式は、天照大神から瓊瓊杵尊三種の神器が手渡されたのを再現した儀式であり、神代の出来事が、現世でもそのままに執り行われているという、実に権威ある神事なのです。
 三島由起夫は、そのことを「建軍の本義」とし、それは「三種の神器」を守ることだと言い切ったのです。それを、ヘンリーさんは、「世界に比類なき、萬世一系の天皇の皇統を守り抜くことだと、そう三島さんは訴えた」のです、と述べていました。
 しかし、三島由紀夫のこの思いは、昭和四十五年十一月二十五日の市ヶ谷での出来事で、残念ながら、自衛隊の皆さんには伝わりませんてした。

 

天皇の皇統を守るために命を託した三島由紀夫

 

  ヘンリーさんは、英語でいう「コンスティテューション」(憲法)とは、「国体」という意味です、と述べています。
 そして、この立場から考えると、「占領憲法は、世界で最も古いダイナスティ(王朝)が歴史を経て連綿とかたちづくってきた『国体』を、内包しているだろうか」と問いかけています。
  そして、戦後の日本国憲法では、その国が守るべき国体が守られていない、と述べ、次のように指摘しています。

 

       守るべきものとは何か
   「建軍の本義」とは、「いったい何を守るための軍団か」ということだ。石原慎太郎は、「フリーダム」、自由だと言った。

 三島さんは、「三種の神器だ」と答えた。「建軍の本義」は、世界に比類なき、万世一系天皇の皇統を、守り抜くことだと、そう三島さんは    訴えた。
   英語で言う「コンスティテューション」=憲法とは、「国体」と言う意味だ。占領憲法は、世界で最も古いダイナスティが歴史を経て連綿とかたちづくってきた「国体」を内包しているだろうか。

 

 そして、ヘンリーさんは、「日本の国家元首は誰か」という章で
   

   なぜ、日本国憲法には国家元首が明記されていないのか。なぜ軍隊を持たないと宣言しているのか。
     国家元首と軍隊を欠いては、独立主権国家は成り立たない。自明のことだ。

 

と、明確に指摘しています。私には、何か、すっきりした思いにさせてくれる一文でした。
  また、マッカーサの占領政策の狙いを

 

   私は、マッカーサー、或いはアメリ国務省の本音とは、日本の保護領化だったと思う。自治権を与えても、国家としての完全なる独立     は、認めないということだ。

 

と、言い切っています。そして、

 

     最近私は、日本国憲法に書かれていない、暗黙の日本の国家元首は、アメリカ大統領なのではないか―そう思うことがある。

 

と、疑義を問いかけています。
 ここの件(くだり)は、私自身もこのような考えに到らせられたことが幾度かあり、今も持ち続けています。それ故、ヘンリーさんのような指摘には、大いに共感します。
 そして、「日本の国家元首は誰か? それは当たり前だが、安倍さんではない」という指摘し、同時に、

 

     三島さんは、命を賭して、その問題提起をした。我々は、いま、その問題提起を厳粛に受け止める秋(とき)を迎えている。
       私は、三島さんのように自決はしない。
     ただ、残された時間で、命がけで、三島さんに託された想いを、「目覚めよ、日本」と、訴えてゆきたい。日本人を信じて!

 

と、ご自身の決意の程を述べています。
 外国人の方に、こうした決意を表明として貰えるというのは、驚きであり、日本人としての自覚を強く促されます。
     
「奇蹟の天皇
 最後の章の「奇蹟の天皇」箇所では、

 

 天皇が存在する限り、日本は存在する。天皇を失えば、日本は日本ではなくなる。
 今年は皇紀で言えば、二六七七年である。世界史を鳥瞰(ちょうかん)してみると、様々な文明や国家が、勃興し、発展し、そして滅びて        いった。その世界史の中に在って、ひとつの王朝が、二千年以上の長い年月、続いてきたことは、奇蹟としかいいようがない。それは、人間業を超えている。私は、その奇蹟に、神の臨在を感じる。

 

と述べています。ヘンリーさんのこの一文には、日本人の一人として歓喜を誘われました。

 

   天皇というご存在は、日本の宝である。と同時に、世界の宝である。生きた宝であり、それは神話からずっと繋がることで神性を宿し、二    十一世紀の現代世界に燦然と輝きを放っている。
   神話と二十一世紀を、生きながらに結ぶ、世界最長の一系の「祭祀王」、天皇のご存在を抜きにして、私は日本文化について語ることは出来ないと思うのだ。

 

 この結びの一文には、ただただ、感動し、納得し、この国の防人たらんという思いを募らせられました。
 フランス国営文化放送プロデューサーとして活躍しているオリビエ・ジェルマントマ氏は、日本の美点をフランスに紹介している人ですが、平成十年十一月二十八日の天皇陛下御即位十年を祝う記念講演で次のように述べています。

 

   天皇のご存在あればこそ、日本民族は、一直線に、連綿として絶えることなく、その最も遠い歴史の淵源と、今なお結び合わされているのであります。世界広しといえども、このような国は、たった一つ、日本しかないのです。
   日本国民の統一と安泰を守るために、日夜、天皇が御心を砕き、民族の偉大性をも不幸をも一身に持しておられることを、私共はよく存じあげています。
 

 エール大学神学部長のパール・S・ビース博士は、その著書『日本古典の精神』の中で、次のように述べています。
 

   人類は五千年の歴史と二度の世界大戦の惨禍を経験した結果、「一つの世界」を理想とする国連憲章を結んだが、日本の建国者は、二千年も前の建国当初に、世界一家を言明している。これは人類の文化史上、注目すべき発言であろう。
 

 パール博士は、このように神武天皇建国宣言の理想を高く評価しているのです。
 神武天皇が日本建国の理想として掲げた精神の中には、世界の調和・宇宙の調和という高邁な理想があったことに、日本人として限りない喜びを感じます。
 人類の長い歴史の中で、今ようやく世界は、調和と共存を求める理 想を共有しはじめようとしていますが、私たち日本人の祖先は、国家建国の当初から世界調和・宇宙の調和を理想としてきたのです。何という感激であろうかと、私は、私たちの祖先の英知に深い感激と感謝の思いを捧げたいと思います。
 最後に、昭和天皇の御製をもってこの稿を終えたいと思います。昭和天皇の大御心をじっくりと感じてください。
    ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ
    日々のこのわがゆく道を正さむと かくれたる人の声をもとむる
    わが庭の宮居に祭る神々に 世の安らぎを祈る朝々

 

平成30年9月吉日

人の生き方を説く教育勅語

人の生き方を説く教育勅語

 
 柴山昌彦文部科学相が、十月五日の就任会見で教育勅語について「道徳などに使うことができる分野は十分ある」と発言したことが、すぐさま野党、マスメデイアで問題視された。 柴山文科省は、此に対して「国として検討するとか、積極的に推奨する準備を進めているとか、そういうことはみじんも申し上げていない」し、「世界中から日本の規律正しさや、お互いを尊重する気持ちが尊敬を集めていると見て取られる部分もある」と対応した。そして、そこ(教育勅語)に示されてある精神は、「現在の教育においても通用する」とも応えていた。「よくぞ言ってくださった」と、国民の一人として納得した次第だ。
  終戦後の戦勝国アメリカの占領政策は、日本弱体化に目的が置かれ、その目的にそって占領政策が推進されていったことは、ご承知の通りである。
  日本の弱体化を図っていく目的と方途は、日本を再びアメリカや太平洋諸国に立ち向かって来れないような国にすることに置かれた。そのために、日本の軍隊を解体し、国家に貢献する精神を無くしていく政策が進められていった。
  ですから、つい先頃まで、学校の始業式や卒業式に国歌「君が代」が斉唱されずに来てしまったし、国歌を歌えない生徒までいた時があった。そして、今の時勢を見ると、戦勝国アメリカの占領政策をしっかりと守り続け、実施してきたのは日教組だったのではないかと、私は理解しています。
  国歌を歌うことが戦争に繋がるという発想を持ち続けてきた国は、世界中で日本だけです。
 日本人は、こうした精神構造を植え付けられた戦後の占領政策は、アメリカの占領政策の目的が、日本の弱体化政策にあったということを、決して忘れてはならないのです。
 そのために国民の愛国心は戦争に繋がっていくという無秩序国家形成への道を戦後の長きに亘って歩まされ、それが平和への道に繋がるという、実に巧みな虚構政策に載せられ戦後七十年の道を歩んできたものが、今の日本なのです。、
  自衛隊は、国防軍として憲法に明記せずして独立国家とは言えません。
 アジアで核兵器保有しているのは、中国、ロシア、北朝鮮、インド、パキスタンです。日本は、アメリカの核の傘の下にあり、平和を守っています、それでは、独立国家とは言えません。北朝鮮は、表向きはともかく、決して核兵器を放棄することはない、と言われていますが、私もそう思っています。

 

 「国家基本問題研究所創立10周年記講演会」で、日本は核を保有すべきだと聴いた

   

   五月十七日、東京で「国家基本問題研究所創立10周年記講演会」が開催され、拝聴してきました。その講演者の一人に、フランス国立人口学研究所の歴史人口学者・家族人類学者であるエマニュエル・トッド博士の講演がありました。
 トッド博士は講演の中で「核兵器は自分を守るためにある」と述べ、日本がアメリカの核の傘の下に入るから安全だというのは神話で、全くの「ジョークだと思います」と述べたのです。
 日本も平和を守るためには、アメリカの核に頼るのではなく、日本が核武装し平和を守っていくことが必要だ、と強調していました。
 日本は核被害国として七十年もの間、核兵器保有すると言う議論は禁句のごとくされてきました。しかし、トッド博士は、その禁句を打ち砕くかのように、日本も核保有国となるべきだと、日本に投げ掛けたのです。
 アジア・世界の現実は、核保有国が平和のバランスを保ち、維持させてきたと言っても過言ではないのかもしれません。
 核兵器保有しなくては、自国の平和を死守することは出来ないと、トッド博士の講演から実感しました。
 日本の核保有の問題は、真の独立国家日本となるために、再考していくべき課題だと実感し、トッド博士の講演を拝聴してきました。

 

平成30年10月吉日

難汝を玉にす

最近出逢った言葉の中で深く心に残った二つの言葉がある。
 一つは「窮達は命なり。吉凶は人に由る」(「文選」)。
 困窮したり、栄達に恵まれたりするのは運命であり、どうしようもないことだ。しかし、その困窮、栄達を吉にするか凶にするかはその人次第、ということである。
 もう一つは、渋沢栄一が晩年好んで揮毫したという言葉。
   天意、夕陽を重んじ
   人間、晩晴を貴ぶ
  一日懸命に働き、西の空を茜色に染めてまさに沈まんとする夕陽の美しさは格別である。この夕陽のように人間も年とともに佳境に入り、晩年になるほど晴れわたっていく人生を送るのが貴いということである。
 困窮を吉にするためにも、晩晴の人生を送るためにも、忘れてはならない大事な心得がある。それが「艱難汝を玉にす」の一語である。人生に降りかかってくる艱難こそ、自分を磨くために天から与えられた試練、と受け止めていく覚悟である。
 例えば、渡部昇一先生は大学生時代よく勉励され、試験での総合点は二番目の学生に二百点以上の差をつける好成績を修めながら、念願の留学の機会が何年も与えられなかった。若い苦学生にとっては最大の艱難である。この艱難をいかに乗り切ったか。先生の言葉がある。
「自分を高めていく過程では、常に何かの形で壁にぶつかるものである。はたから見れば取るに足らない小さいことでも、当人にとっては大きいことである。そんなとき、なげやりになったり後退したりしないで進むためには、いくつかの方法がある。
  私の場合、聖書の中の"最後まで耐え忍ぶ者は遂には救われるべし"という言葉と、昔漢文で習った"志有る者は事竟に成る"という言葉を、あたかも念仏のように唱えることで心を静めた。壁に突き当たったと感じるときときは、散歩しながらでも、寝る前でも、この言葉を繰り返し唱えた」
「艱難汝を玉にす」―艱難にあうことによって、人は立派な人物 になる。その言葉の見事な実証を先生は私たちにみせてくれている 艱難こそが人を磨くとは古来、多くの先達がさまざまに述べていることである。
「ある人問う、人艱難にあう、これ不幸なる事か。曰く艱難はまた事を経ざる人の良薬なり。心を明らかにし、性を練り、変に通じ、権に達する。まさにこの処にありて力を得」(『格言聯壁』)
 艱難にあうのは不幸なことではない。これは人生経験の少ない人の良薬である。艱難を経験することで人は心を明敏にし、性格を練り鍛え、変化に対応する知恵を身につけ、物事を計画する力を養う事が出来る。まさに艱難によって人は力を得るのだ、という。
『自選坂村真民詩集』をこの程復刊したが、真民先生にも若い頃病魔に侵され生死の境をさ迷われる中で詠まれたこういう詩がある。
「苦がその人を 鍛えあげる 磨きあげる 本ものにする」
最後にこの人も幾度の艱難を乗り越えて覚者になられた人、常岡一郎氏の言葉。
「逆境はつねにいつでも自分の敵ではない。ときには恩師となって人生に尊いものを教えてくれることがある。心の親となって自分の本質を守り育ててくれる。不幸、病気、逆境は太成する人格を育てる落ち葉である」(『常岡一郎一日一言』)

 

平成30年9月吉日

石川 洋先生が遺された、「大丈夫 天地は貫いている」に学ぶ

 この度は、私が若いときから導かれ、教え、諭されてきた、京都にある共同体・一燈園というところで長らく生活しておられた石川 洋先生がお書きになった下記の一詩文から、「生きるとは何か」ということを一緒に考えて見たいと思います。
                                                  
          「大丈夫 天地は貫いている」

     

     「天」という漢字は
         二本の横線と                                                 
    「人」によって組み合わされている
       横に並んだ二本の「一」は
       「天」と「地」を意味するが
       平行線で交わることはない
   そこに天地の深い意味が秘められている
 
         古代の日本人は
    太陽の光は天から地にあふれこぼれた
     恵みの光であると受け止めていた
 
     しかし、地からは天に交わることが出来ない
         ではどのようにして
      天に通じることが出来るのか
       それは、人のこころがきよめられ
               無我となる時
     天地に誠の道が生まれるのであると
               受けとめてきた
             それが天地をつらぬく
               人の道なのである

 

      天という字は、二本の横線と、「人」という文字によって組み合わせられ、成り立っているという。
 そう言えば、確かにそうなっていますね。
 しかも、横に並んだ二つの「一」は、「天」と「地」を意味するという。「そうか」と思わず、納得させられました。
 しかし、この「天」と「地」の二本の横一は、平行線で決して交わることはない、とも言っています。確かにそうですね。
  そして、そこに天地の深い意味が秘められているというのです。
  古代日本人は、太陽の光は天から地に差し込み、その太陽の光を恵みとして受け止めてきました。その当たり前の自然の恩恵が、いかに「ありがたいことであるか」ということを知らせるようにして、この詩は謳っています。
 そして、「地」から「天」には、交わることは出来ないが、「地」からは「天」に通じる道があるというのです。
 その天に通じる道は、人の心を清める道であり、無我の心へ導く道でもあるという。
 その心を、日本人は古来、天地を貫く道として「誠」という道を説き続けてこられた。

  現代の世相で一番欠如しているのはこの「誠」の心です。この「誠」の心こそ天に通じる道であり、万民に通じる人の道でもある、と故人は諭してこられました。
 現代の世相をマスメディアを通して見、聞きしていると、私たち日本人は、今一度、日本の心・魂の遺産である「誠」の道を見直す時代を迎えているぞ、と天から教え諭しているようにも聞こえ、思えてならない。
                                                                                          平成30年9月23日記

今こそ日本の真の姿を取戻す憲法改正を実現させよう

一、アメリ占領政策のねらい

  昭和二十年八月十四日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。翌十五日には、ラジオの玉音放送で全国民にそれが告げられました。
 その内容は「日本軍隊の無条件降伏」の受け入れでした。
  当時の連合国軍の対日占領政策は、実質的にアメリカの国務省と陸海の両軍が共同作成し、それをトルーマン大統領が承認し、進められてきました。
 この対日占領政策の方針は、昭和二十年九月二十二日に発表された「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」の中に、次のように示されています。

 1.占領の目的は、日本が再びアメリカの脅威とな  り、また世界の平和及び安全の脅威とならないよ  うにすること。
 2.他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と  原則に示されたアメリカの目的を支持すべき平和  的かつ責任ある政府を究極において樹立すること。
 
 日本の占領政策は、この方針に基づいて実施され、「日本の武装解除並びに非軍国主義化」が進められました。
  こうして日本の占領政策は、「東京裁判」「日本国憲法制定」等の占領政策が推し進められたのです。
     
二、主権を喪失した中で成立させられ た日本憲法

 何よりも日本国民が知っておくへべきことは先に記した、日本が連合国軍アメリカの支配下にあった昭和二十一年二月に、アメリカ軍によって作成された憲法草案を国会で成立するよう指示されたものなのです。しかも、そうしなければ「天皇の命も保証できない」と脅されていたのです。
  そのアメリカ製の日本国憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と記されています。
 この一文は、日本を非武装化したアメリカが、日本が再びアメリカ、及び太平洋諸国に立ち向かって来れない国にするために作成した内容です。
 この一文は、戦後七十年の日本の平和観形成に大きな影響を与え続けてきたのです。
 しかし、現実の世界情勢は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ということを、戦後の世界情勢が実証としています。それが現実の世界です。
 世界は今、アメリカのイラン政策、ロシアの北方領土ウクライナ政策、中国の尖閣諸島の領海侵犯と東南アジア諸国への領土拡張政策、韓国の竹島政策、北朝鮮の核実験・ミサイル問題など、一色触発の状態です。
 特に、アメリカのトランブ大統領の政策は、一歩間違えば世界を混乱状態に陥れてしまうという、危惧感を世界に抱かせています。
 この事実を、私たち日本人はしっかりと認識してきましょう。
 
三、真の日本を取り戻そう

 憲法は、時代と共にその時代のニーズに合わせて改正されていくべきものです。永遠不変な憲法を保持している国は、世界中どこにも存在しません。
 しかも、その国の憲法は、自国の歴史と伝統を尊重し、祖先の築き上げてきた歴史と文化に誇りを持つべき内容でなくてはなりません。
 自国の憲法は、国民の価値判断と意志で成文化されるべきものであります。
 安倍政権下にある今のこの時こそ、アメリカによって草案された憲法を改正し、自衛隊の存在を憲法で明記し、誇りを持って国家・国民のために働けるようにしていきましょう。
 この事を日本民族精神復興の契機とし、安倍政権下の今こそ、全国民が立ち上がって、憲法改正に立ち向かっていきましょう。
 そして、日本人の意志で作り上げた日本国憲法を、私たちの子孫に託していきましょう。
 
   平成30年9月吉日

日本の憲法を問う

日本の憲法を問う
                        

 自民党の総裁選が告示され、安倍晋三首相と石破茂元幹事長が対決する形になっているが、論点の要は憲法改正問題が中心であることはだれもが承知の通りである。

 元々自民党は、自主憲法制定を謳って立党した政党だから、憲法改正について意見が分かれることはない。
 ただし、憲法9条の改正内容については意見が分かれているので、それがこのたびの総裁選挙の争点にもなっている、ということだ。

 個人的には、一気に憲法改正を行ってしまうか、世論の動向を見ながら、受容されるに無理がないように進めていくか、というところに違いがあるだけの問題であろう、と理解しています。

 参議院議員選挙を控え、安倍首相は憲法改正を表面に打ち出し、総裁選を世間に訴えているが、考えてみればそれが国民を憲法改正問題に関心を深めさせていく機会にもなっていくことになろう。

 大いにマスメディアが両者の意見対立を取り上げ、話題提供としてくれればと、それだけ国民の憲法への関心も深まっていくいくであろうから、「やれやれ!」と期待していてるところだ。

  そこで、本論は、憲法改正問題について話題を絞り、述べることにする。

 戦後七十年を経た日本国憲法
 見直してみよう
                        
       占領政策のねらいから

  昭和二十年八月十四日、日本は、ポツダム宣言を受諾し、十五日に天皇陛下玉音放送で全国民にラジオを通じて、それが知らされました。その内容は、「全日本軍隊の無条件降伏」を求めたものでした。
  連合国の対日占領政策は、実質的にアメリカの対日方針によって実施され、その方針は、国務省と陸海の両軍が共同作成し、それをトルーマン大統領が承認し、進められた。
 対日占領政策の方針は、昭和二十年九月二十二日に発表された「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」の中に、次のように示されている。
一.占領の目的は、日本が再びアメリカの脅 威となり、また世界の平和及び安全の脅威 とならないようにすること。
二.他国家の権利を尊重し、国際連合憲章の 理想と原則に示されたアメリカの目的を支 持すべき平和的かつ責任ある政府を究極に おいて樹立すること。

  以上である。日本の占領政策は、この方針に基づいて実施され、具体的なねらいが「日本の武装解除並びに非軍国主義化(非軍事化と民主主義制度の確立)」に置かれた。
  日本の占領政策は、これを基点として東京裁判日本国憲法制定等の占領政策が推し進められた。憲法問題は、この大前提から見直さなければならないまです。
     
        マッカーサー私案による
      日本国憲法の成立経緯

 昭和二十一年二月三日、マッカーサーは、GHQ民政局へ日本の憲法草案を作りを命じ、十日間で、日本国憲法の草案が作成された。
 その際、マッカーサーは、草案作成に当たって次の三点を提示した。
一、天皇国家元首であり、それは世襲によ  るもので、職務と権限は憲法によって規  制される。
二、国の主権的権利としての戦争を廃止し、   紛争解決および自己安全保持のための手  段としての戦争を放棄する。いかなる陸  海空軍も認めない。
三、日本の封建制度を廃止する。
  これがマッカーサーノートた。
 そして、GHQ民政局は、このマッカーサーノートに基づいて占領政策を検討し、二月十三日、日本に憲法草案を提示した。その時、アメリカ軍のホイットニーから、これを「受け入れなければ天皇の身を保証できない」との脅迫があったという。
 日本国憲法九条の成立には、次の三つの制定過程があった。
 一つは、マッカーサーノートの修正です。
 民政局の一人ケーディスは、マッカーサー私案の「自己の安全保持のための手段としての戦争を放棄する」を削除しました。それが九条第一項となったわけです。
 二つは、芦田修正です。
 芦田修正とは、九条第二項の前提に「前項の目的を達成するため」という語句を入れることでした。 
 前項の目的とは、「国際紛争を解決する手段として」の戦争のことです。
 つまり、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」は否定されなかったのです。防衛のための陸海空の戦力は否定されていなかった、ということです。
 三つは、極東委員会から文民条項の導入がされました。
 GHQの上部団体である連合国軍で編成される極東委員会は、日本国憲法第六十六条に「内閣総理大臣その他の国務大臣文民でなれければならない」という条文を入れさせたのです。非武装であればこの条文は必要なかったのですが、第九条が自衛のための戦力を認めたものと解釈したから、極東委員会から草案作成の最後の段階で、この一文が入れられたのです。
 つまり、軍部の台頭を防ぐため、文民条項による軍隊の指揮系統をここで明記したのです。 
 これらを盛り込んだ最終草案をマッカーサーは認めたので、九条の当初のマッカーサー私案は、自分でも行き過ぎた案であったと、後に考えたのであろうと指摘されています。

   憲法の基本的スタンスを無視した
  アメリカの暴挙から、今こそ自立を

  憲法の前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意して」とありますが、この意識に日本国民を導くことが憲法草案の基本だったのです。
  また、戦後日本の歩みの中で、「諸国民の公正と信義に信頼した国が存在した」などということはありません。 
 憲法は、時代と共にその時代のニーズに合わせて改正されていくべきもので、永遠不変な憲法を保持している国は、世界中のどこにも存在しません。
  その国の憲法は、自国の歴史と伝統を尊重し、祖先の築き上げてきた文化に誇りを持つ国家国民として、自国の権利と義務を明記すべきものなのです。
 国家は、国民の生命と財産を守り、基本的人権を保証すべき存在です。
  現在の日本国憲法改正の動きでは、憲法九条の問題に視点ろろろが集中していますが、自衛のための防衛力の必要性については社民、共産の両党以外、皆一致しています。しかし、集団的自衛の問題では、それぞれの見解に違いがあり、争点の的となっていま。
 また、特定の国の指導によって日本の平和と安全が左右されるようでは、真の独立国家とは言えません。そこが現在の日本の大きな課題です。
  他にも、公共の秩序と個人の自由の問題、信教の自由と政教分離の問題等にも問題があります。また、教育基本法改正に伴う宗教情操教育と愛国心のあり方にも更なる議論が必要です。
 ハーグ陸戦法規国際法には、「占領軍は占領地の現行法律を尊重しなければならない」と規定されていますが、日本国憲法は、この国際法が無視された形で成立させられたと言っても過言でありません。
 この問題こそ憲法問題を考える根本義だと考えますが、皆さんはどうお考えでしょうか。
 自国の憲法は、その国民自身の価値判断と意志で成文化されるもので、日本は、戦後七十年を経て、今がその時となったと、私は考えます。
 同憂同願の士の多くを期待します。   

2018年9月13日

 

  
※参考文献
・『この国をダメにした日本国憲法』(政治 史研究家・瀧澤中(あたる)著。ぶんか社)       ・『日本の憲法国民主権の論点』(講談社)・「日本」を否定した 日本国憲法の問題  (八木秀次高崎経済大学助教授。

谺 ー渡辺和子先生を偲んでー

平成二十九年最初の朝会での話しを紹介します。
  

 始業式の成田博昭校長先生の挨拶で、ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生についてのお話がありました。とても感動しました。
渡辺和子先生は、本校の開校三十周年記念式典の記念講演会で講師としてお招きし、講演をしていただきました。爾来、渡辺先生とは、今日まで年賀状を通してのお交わりをさせていただいて来ました。お歳暮も毎年お送りさせていただき、毎回、直筆の礼状を賜わり、随分と身近に感じさせていただいて来ました。
 その渡辺和子先生が昨年十二月三十日に他界されました。享年八十九歳でした。私がそのことを知ったのは、一月中旬頃で、インターネットの「YAHOO!」JAPANのニュースの記事でした。
 正月を経た七日頃、一月三日以降に配達された郵便物を整理していたら、渡辺和子先生の葉書とお年賀があったのです。葉書には昨年の十二月初旬に発送したお歳暮のお礼が直筆で書かれていました。葉書の差し出し日を見ましたら「12・29 18-24」とありました。お正月早々の郵便に混じっていたのです。渡辺先生が国替えなされたのが十二月三十日ですから、他界される直前に郵送してくださったということです。
 このことを、日を増すごとに思い出しますと、渡辺和子先生のお人柄が強く、強く偲ばれてきて致し方がありませんでした。国替えされる直前までお心に掛けてくださっていたのかと思うと、ただただ恐縮の思いに駆られ、心から感謝され、追慕されました。しかも、他界される直前に、年賀状まで出しいただいていたということに、「先生!ありがとうごさいます」と、私は叫ぶような思いでした。しかも、私が葉書と年賀を手にしたときは、まだ渡辺和子先生がお亡くなりになられたということは知らずにいましたから、当然お元気で新年を迎えられたとばかり思っていました。それがネット上で渡辺和子先生の死亡記事を見たときは、「まさか」と驚愕してしまいました。しかも、渡辺和子先生のご逝去を知ったのは、始業式の二、三日前のことですから、「礼を失してしまい、申し訳ありませんでした」とお詫びするのみでした。
 お歳暮の礼状には、直筆で「今年も残すところ数日となりました。この度は青森のリンゴジュースをお届けくださり、ありがとうごさいました。お寒くなりましたので、お体を大切に良いお年をお迎えくださいませ」と書かれてあったものですから、ことさら驚いてしまいました。
 しかも、懐かしい筆跡でしたから、お元気でいるとばかり思い込んでいましたから、「今年は、可能であれば本校に講演でお出かけになれればお願いしたい」と、思いを巡らせてもいましたから、今になって考えると、「もっと早めに行動すべきだった」と、悔やまれるばかりです。しかも、礼状に続いて、お年賀までいただきましたから、当然、お元気でお過ごしでいらゃるとばかり思っていましたから、ただただ悔やまれる次第でした。
 先生の死因はすい臓癌で、修道院で国替えされましたから、お便りも送っていただけたのだと思います。心から恐縮され、感謝の思いで一杯です。
 こうした思いでいた時に、三学期の始業式で成田博昭校長先生が渡辺和子先生の著書『置かれた場所で咲きなさい』を紹介しながら、お話をしてくださったものですから、一層、渡辺和子先生を偲ぶ思いが募り、今日こうして、始業式での成田校長先生に続いて、渡辺和子先生のお話をさせていただくことにした次第です。
 皆さんには、渡辺和子先生の著書『幸せはあなたの心が決める』の中から、私が自分の心に染みた一文を二篇印刷し、配付させて貰いました。この二篇を渡辺和子先生の「遺書」と捉えて、人生の指針にしてくれればと思い、配布しました。
 さて、始業式で成田校長先生が紹介された『置かれた場所で咲きなさい』というのは、ノートルダム清心学園理事長・シスター渡辺和子先生の著書の題名です。英文では『Blom whereGodhasplantedyou..』(ブルーマ ホォエアー ゴッド ハズ プランテッド ユー)と書くと、校長先生が教えてくれました。意味は、「神があなたを植えた所で咲きなさい」です。
 そして、本文には続けてこう書かれています。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは、自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神があなたをここにお植えになったのは間違いではなかったと、証明することなのです」と話してくれました。心に染みる良いお話でしたね。 
 皆さんは、まだ成田校長先生のお話が、記憶に残っていますね。(「はい」と一斉に声が挙がる)
 さて、渡辺和子先生に最初に講演をしていただいたのは、新宗連奥羽総支部青森県大会の講師としてお招きさせていただいた時です。当時、初代教主さまが奥羽総支部の会長でしたから、渡辺先生と初代教主さまとの対談も計画させていただきました。素晴らしいお二方の出会いによる対談でした。それから本校の開校三十周記念式典での講演もお願いさせていただきました。その後、青森県私立学校理事長協議会の研修会での講演もお願いさせていただきました。このようにお交わりさせていただけことを心から感謝されます。渡辺先生の気さくで、品のあるお人柄は、思い出せば、今でも魅了させられる思いです。
 渡辺和子先生の死亡記事に、プロフィールが次のように掲載されていましたので紹介します。一月一日付の山陽新聞です。

   

 渡辺和子さん安らかに 岡山で信仰、教育に献身
   ノートルダム清心学園岡山市北区伊福町)理事長の渡辺和子さんが三十日、八十九歳で亡くなった。〈神は決してあなたの力に余る試練は与えない〉。キリストのこの言葉を心の支えに信仰と教育に身をささげ、縁もゆかりもなかった岡山の地で女子の高等教育や私学振興に貢献した。

 

 人を魅了する優しいまなざしからは想像し難い、壮絶で波乱に満ちた人生だった。

陸軍教育総監の父が目の前で凶弾に倒れた二・二六事件は九歳の時、長じてカトリックの洗礼を受け、米国留学を経て、三十六歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に抜擢された。それから半世紀余り、学長は二十七年間務め、一九九〇年からは同学園の理事長の職に就く。若い時は責任の重さに押しつぶされそうになりながら、年を重ねてからは自らの病や老いと向き合いながら人の心に寄り添ってきた。
   
 「人生は思い通りになりませんよ」。最後まで立ちつづけた教壇から、ひ孫ほど離れた学生たちに試練に立ち向かうメッセージを穏やかに、しかし、きっぱりと伝えてきた。渡辺さんの母の教えもあったという。
        
    どんな境遇にあっても、そこから逃げてはいけない。境遇をえらぶことができなくても、人にはそれに向き合う生き方を選ぶ自由がある。今いるその場所が、あなたの咲く場所。自らの内面を素直につづったエッセー集「置かれた場所で咲きなさい」が二百万部を超えるロングセラーになったのは、平明な言葉の一つ一つが、苦境を抱きしめるようにして生きてきた渡辺さんの揺るぎない信念に裏打ちされていたからだろう。その生き方は多くの人々の共感を呼んだ。
  

 昨春、旭日中綬章を受賞した際の記者会見の光景が思い出される   
「私にとっての宝は学生たち。学生の前〈教壇〉で倒れることができたら…それが私の一番の願いです」。メモをとりながら「倒れる」という言葉が胸に引っ掛かった。生涯現役を貫く思いは何度か聞いていたが、こんなにストレートな言い回しは初めてだったからだ。その時の違和感のようなものがいま、突然の訃報に接してよみがえってくる。

あの時にはもう、人生の残り時間を意識していたのかもしれない。
    
 昨秋、著書の印税で高校生に奨学金を給付する「渡辺錠太郎記念教育基金」の創設を発表した時もそうだった。最愛の父の名を基金に冠したのも、二・二六事件から八十年の節目に心を期す何かがあったように思われる。

 

 二〇一五年二月から十一月まで山陽新聞朝刊に計六十三回連載した企画「強く、しなやかに 渡辺和子と戦後七十年」の取材で、一年近くにわたってインタビューさせていただいた。そのメモを繰(く)りながら思い出があふれてくる。とりわけ両親の思い出を語る渡辺さんは印象深かった。

 米国留学へ船で旅立つ自分を紙テープを握り締めて見送る母。「映画のワンシーンのようでしょう」。一枚の写真を見つめるその表情は少女のようだった。

 シスター、安らかにお眠りください。 
 

 

 この一文で、渡辺和子先生のお人柄と人生観をご理解いただけたと思います。
次に、今日配付した渡辺和子先生の一文を紹介します。
まず、読んでみましょう。

 

人間関係の秘訣

 人間関係を和やかにするのに、「の」の字の哲学というのがあります。

たとえば、夫が会社から戻ってきて、「ああ今日は疲れた」と言った時に、知らん顔して、その言葉を聞き流したり、「私だって、一日結構忙しかったのよ」と自己主張したのでは、二人の間はうまくゆきません。その時に、「ああそう、疲れたの」と、相手の気持ちをそのまま受け入れてあげることが大切なのです。友人が「私、海外旅行に行ってきたの」と言えば、「あら、私もよ」と相手の出鼻をくじいたり、「どこへ、誰と」と尋ねたりする前に、「そう、旅行してきたの」とおうむ返しに言葉をそのまま繰り返して、相手に共感することが、相手の真の優しさとなります。私たちはとかく自分本位になりがちで、共感する前に自己主張をしがちです。相手が感じていることを、そのまま受け止めてあげる前に「私だって」とか、「私なら」と比較してしまいがちです。

 自分が感じたことのない気持ちには共感できないので、そのためには、いろいろと自分も経験することが大切になってきます。ただ、ここで気をつけないといけないのは、同じような経験でも、他人のそれに対する感情と、自分のそれと同一ではあり得ないという事実です。子どもを亡くしたことのない人より、その経験をした人の方が、今悲しんでいる人に共感を抱きやすいとは思いますが、一人ひとりの経験は独特なものであって、決して同じはありません。

「慰めてくれなくてもいい。ただ、傍にいてください」と言われたことがあります。

ただ「悲しいの」「苦しいの」と受け止めてくれる人ーキリストは、そういう人でした。「の」の字の哲学の元祖だったのです。
    
醒めた目と 温かい心で 生きてゆきたい。

真の優しさとは、共感すること。自分を抑えて

相手の話を聞き、ただ傍にいてあげること。

 人間関係を和やかにするのに、「の」の字の哲学というのがある、と説かれた渡辺和子先生のお言葉は、私たちの日常生活の中で、最も大切で、必要な心配りだと思います。
 たとえば、夫が会社から戻ってきて、「ああ今日は疲れた」と言った時に、奥さんが知らん顔して、その言葉を聞き流したり、「私だって、一日結構忙しかったのよ」と自己主張すれば、ご主人は口を噤んでしまうと共に、ガックリし、疲れが一層募るばかりとなります。それを、「ああそう、疲れたの」と、相手の気持ちをそのまま受け入れる言葉で応答してくれたら、もう元気一杯になって、明るく夕食に臨むことが出来ると思います。そして、その時、奥さまが、「先にお風呂にしますか。お飲み物はビールで良いですか」と言ってくれたら、ご主人は機嫌が益々良くなって、「明日も頑張るぞ」と張り切って、翌日を迎えられると思います。女生徒の皆さんはよく覚えておくんですよ、夫婦は言葉の掛け具合一つで、仲良くもなれば、喧嘩にもなるのですよ。何事も、「の」の字の哲学です。
 このことは、夫婦関係だけでなく、人間関係の基本として理解しておきましょう。
 

 松風塾高校は全寮制ですから、特に「の」の字の哲学を実践する訓練の場として務めてください。そこには、友情の花を咲かせる寮生活が待っていると思います。友人が「私、海外旅行に行ってきたの」と言えば、「あら、私もよ」と相手の出鼻をくじいたり、「どこへ、誰と」と尋ねたりする前に、「そう、旅行してきたの」とおうむ返しに言葉をそのまま繰り返して、相手に共感することが、相手の真の優しさとなります。
こうした相手への真の優しさを伝えられる寮生活にして行きましょう。(「はい」との声が会場に響く)

 

もう一つのエッセイを読んでみます。
 

あなたの近くにも「カルカッタ」はある

 マザーテレザが日本にいらした時のことです。私たちの大学にいらして、待ち構えていた学生たちにお話をしてくださいました。

お話に感動した学生たちの中から、カルカッタで奉仕団を結成したいという声があがり、受け入れについての質問が出ました。マザーはとても嬉し気(げ)に、感謝しながら、こう言われたのです。
 

「その気持ちは嬉しいが、わざわざカルカッタまで来なくてもいい。まず、あなたたちの周辺の『カルカッタ』で喜んで働く人になってください」

 

 それから二年半経った三月中旬、私は広瀬さんという卒業生から手紙を受け取りました。その人は、前年の三月に大学を卒業して、県内のある高校で国語の教師をしていました。自分が教師になって初めて送り出した女子生徒の一人が、卒業式後にこう言ったそうです。

「広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」

そう言い置いて校門を出ていった生徒の後ろ姿を見ながら、広瀬さんは思いました。「私がしたことといえば、授業中に目が合った時、あの子に努めてほほえんだことだけだったかも知れない」と。

その女子生徒は、学業にも家庭にも問題を抱えていて、他の教師たちには「お荷物」と考えられていたそうです。

他の教師たちから無視されていた生徒に、広瀬という新卒の国語教師は、目を合わせることを恐れず、しかもほほえみかけることによって、その生徒の存在を認め、見捨てなかったのでした。

 私が特に嬉しかったのは、広瀬さんは、かつてカルカッタへ奉仕に行きたいと申し出た一人だったということでした。彼女は、マザー・テレサとの約束を守って、自分が教えるクラスの中の「カルカッタ」で立派に働いてくれていたのです。私たちの周辺にも「カルカッタ」があります。それは案外、家庭の中で相手にされていない老人かも知れません。学校でいじめられたり、無視されている子どもたち。職場で、社会で、仲間はずれされている人々。生きがいを失って淋しい思いで生きている人たち。そのような人たちに、ちょっとした優しい言葉、動作、温かいまなざし、ほほえみを差し出すことを忘れていないでしょうか。
 「みんな、自分が一番かわいいのよ」と、私の母は、私が落ちこんでいる時に、慰めとも、戒めともつかない言葉を言ってくれたものです。そんな時に、ほんの少しの優しさ、ほほえみ、言葉がけで、今まで何度癒やされ、力づけられてきたことでしょう。私たちは、自分自身も「カルカッタ」にいる時があるのです。ですから、お互いに手を差し伸べることが大切なのです。
    
      ほんの少しの優しさ、温かいまなざし、ほほえみ、
      言葉がけが、淋しい人を救う。
      世の中を変えるのは、「あなたが大切」という
     ほほえみがけや優しい小さな行動かも知れない。
  

 

  心に染みてくる一文ですね。「カルカッタ」はインドだけでなく、私たちの生活の場にもあるというのです。
  「それは案外、家庭の中で相手にされていない老人かも知れません。学校でいじめられたり、無視されている子どもたち。職場で、社会で、仲間はずれされている人々。生きがいを失って淋しい思いで生きている人たち」
こういう人たちが、私たちの生活の場にいませんかと、マザーテレサは発問し、その人たちこそ「あなたの周辺にある『カルカッタ』です、その人たちのために喜んで働く、奉仕する人となってください」と、お話ししてくださいました。
そして、この話を聞いた女学生がやがて高校の国語の教師となり、一年が過ぎ、初めての卒業式を迎え、初めて送り出した女子生徒の一人から、「広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」と言われた。そして、その女子生徒は、そう言い置いて校門を出て行ったというのです。
 広瀬さんは、その生徒の後ろ姿を見ながら、「私がしたことといえば、授業中に目が合った時、あの子に努めてほほえんだことだけだったかも知れない」と思ったそうですが、その生徒と目が合った時にほほえんだそのことが、その女子生徒の生きる力となり、希望となり、無事に卒業させることになった、というのです。しかも、その女子生徒は、学業にも家庭にも問題を抱えていて、他の教師たちには「お荷物」と考えられていたというのです。だからこそ、広瀬先生だけは、他の教師たちから無視されていたその女子生徒に、国語の授業の時はその生徒と目を合わせることを恐れず、しかも、ほほえみかけることによって、その生徒の存在を認め、見捨てなかった、というのです。その優しさが、その思いやりが、その女子生徒に無言のうちに伝わり、卒業式後に「広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」と言って、校門を背にして卒業させていく力となったというのです。それが広瀬さんの周りにある「カルカッタ」であり、その中で喘ぎ、苦しんでいた心貧しき人のために働くことで、その人たちの心を豊かに成長させ、希望をもって生きて行けるように育てていくことが出来たのです。このような素晴らしいお話を渡辺和子先生は、『あなたの近くにも「カルカッタ」はある』というエッセイで書いて遺していってくださいました。
 この二つのエッセイを、八十九歳で国替えされた渡辺和子先生の遺言のエッセイとしてとして皆さんに贈らせていただきましたので、その意を汲んで、大切にし、生きる指針としてくださればと思います。

谺ーはじめにー

本稿は、私が学校法人大和山学園理事長として、松風塾高校で週一度の朝会でお話させて貰った内容に加筆し、まとめたものです。期間は、平成十九年一月から九月まで行った朝会の話題です。
 タイトルは、松風塾高校卒業生に、戦後の日本に覚醒を促す日本人たれとの願いを込め、「谺(こだま)」としました。それは、父であり、師でもあった松風塾高校の創設者田澤康三郎先生の願いを継承した大和山学園二代目理事長としての責任として、また、私自身の教育者としての使命として話してきた「朝会訓話集」であることから、この声が多くの人に伝わっていきますようにと願い、付けました。
 私は平成九年一月、理事長に就任以来、二十一年間その任を果たしてきました。そして、この間に、週一度、朝会で話もさせて貰ってきました。卒業式には、その年の一月から十二月までの朝会の話を朝会訓話集として編み、卒業記念誌として配布させて貰ってきました。それが平成二十九年度で十八号となる予定でしたが、十月四日で理事長を退任したので、急遽、九月までの朝会の話を、自費出版で刊行させて貰いました。もちろん、この度刊行した責任の一切は発行者の私にあります。
 但し、九月までとはいえ、朝会での話しをまとめたものですから、当然、生徒を対象にした話し方になっています。しかし、話の内容は社会時評と青年の生き方についてが中心になっていますので、一般の方にもお読みいただき、現在の日本について考えるきっかけにして貰えればと願い、刊行させてもらいました。
  日本は今、戦後教育の見直しが迫られています。私はそう思って、昭和五十年四月に、松風塾高校に奉職させて貰いました。
 松風塾の創設者田澤康三郎先生は、東京帝国大学で恩師岸本英夫先生から、占領軍アメリカの占領政策の目的は日本弱体化にあり、その危機は「戦後三十年後にくる」、とのお話を聴かれました。そして、宗教学を学んだものはその時に備えるため、日本の伝統文化を英語で話せるように準備しておこう、と話されたことに発憤し、時至れば大和山で「青年教育」を始めようと決意し、昭和二十一年五月十五日に大和山本部の教祖さまの元へご帰本されました。そして、時至った昭和三十年五月一日、生活学苑大和山松風塾を開塾して青年教育を始められ、昭和四十九年四月には学校法人大和山学園松風塾高等学校へと昇格させ、現在に至って来ました。これが、松風塾の原点です。そして、創立者の教えの原点には常に「戦後三十年の危機」がありました。
 私は、高校三年の夏に、大和山本部で開催された青年教徒夏期修行会に参加し、当時、小松風先生であられた初代教主さまのご垂教でこれらのお話を拝聴し覚醒を促され、将来教師となり日本を建て直す青年育成に励もうと決意しました。私のそれからの歩みは、このことを目標にした人生となり、紆余曲折しながらも歩み、今日に至っています。
 この「戦後三十年の危機」に対する思いは、今も変わらないばかりでなく、益々強くなっており、その思いは憲法改正の国民運動化へとエスカレート化してもいます。
 こうした思いを、読者の皆様にお届け出来ればと願い、同書を刊行しました。
  なお、二部作として、平成二十九年一月二十二日に刊行した『改訂 憲法を問うー戦後七十年の総括のためにー』を追記しました。安倍晋三首相は、年頭の記者会見で、年内に憲法改正の国会発議をしたいという思いをにじませた、と報道され、憲法改正は国民的課題となっています。それがためにも、憲法改正問題を考える一助になってくれればとの願いで追記しました。読者諸氏のご理解を賜れば幸いです。

     平成三十年三月一月 
                                                                                             田 澤 昭 吾