田澤昭吾のブログ

私の国家観・人生観をこれまでの教育現場での経験を交えて書かせていただきます。この度、ブログを甥っ子に指導を受けて、実施してみることにしました。71になろうとしている団塊世代の年寄りが、心の若返りと、憂国の思いを、人生の最後の歩みに吐露し、悔いのない日本人の生き方を全うしたい。これから皆さんと対話したいと思います。

谺 ー渡辺和子先生を偲んでー

平成二十九年最初の朝会での話しを紹介します。
  

 始業式の成田博昭校長先生の挨拶で、ノートルダム清心学園理事長・渡辺和子先生についてのお話がありました。とても感動しました。
渡辺和子先生は、本校の開校三十周年記念式典の記念講演会で講師としてお招きし、講演をしていただきました。爾来、渡辺先生とは、今日まで年賀状を通してのお交わりをさせていただいて来ました。お歳暮も毎年お送りさせていただき、毎回、直筆の礼状を賜わり、随分と身近に感じさせていただいて来ました。
 その渡辺和子先生が昨年十二月三十日に他界されました。享年八十九歳でした。私がそのことを知ったのは、一月中旬頃で、インターネットの「YAHOO!」JAPANのニュースの記事でした。
 正月を経た七日頃、一月三日以降に配達された郵便物を整理していたら、渡辺和子先生の葉書とお年賀があったのです。葉書には昨年の十二月初旬に発送したお歳暮のお礼が直筆で書かれていました。葉書の差し出し日を見ましたら「12・29 18-24」とありました。お正月早々の郵便に混じっていたのです。渡辺先生が国替えなされたのが十二月三十日ですから、他界される直前に郵送してくださったということです。
 このことを、日を増すごとに思い出しますと、渡辺和子先生のお人柄が強く、強く偲ばれてきて致し方がありませんでした。国替えされる直前までお心に掛けてくださっていたのかと思うと、ただただ恐縮の思いに駆られ、心から感謝され、追慕されました。しかも、他界される直前に、年賀状まで出しいただいていたということに、「先生!ありがとうごさいます」と、私は叫ぶような思いでした。しかも、私が葉書と年賀を手にしたときは、まだ渡辺和子先生がお亡くなりになられたということは知らずにいましたから、当然お元気で新年を迎えられたとばかり思っていました。それがネット上で渡辺和子先生の死亡記事を見たときは、「まさか」と驚愕してしまいました。しかも、渡辺和子先生のご逝去を知ったのは、始業式の二、三日前のことですから、「礼を失してしまい、申し訳ありませんでした」とお詫びするのみでした。
 お歳暮の礼状には、直筆で「今年も残すところ数日となりました。この度は青森のリンゴジュースをお届けくださり、ありがとうごさいました。お寒くなりましたので、お体を大切に良いお年をお迎えくださいませ」と書かれてあったものですから、ことさら驚いてしまいました。
 しかも、懐かしい筆跡でしたから、お元気でいるとばかり思い込んでいましたから、「今年は、可能であれば本校に講演でお出かけになれればお願いしたい」と、思いを巡らせてもいましたから、今になって考えると、「もっと早めに行動すべきだった」と、悔やまれるばかりです。しかも、礼状に続いて、お年賀までいただきましたから、当然、お元気でお過ごしでいらゃるとばかり思っていましたから、ただただ悔やまれる次第でした。
 先生の死因はすい臓癌で、修道院で国替えされましたから、お便りも送っていただけたのだと思います。心から恐縮され、感謝の思いで一杯です。
 こうした思いでいた時に、三学期の始業式で成田博昭校長先生が渡辺和子先生の著書『置かれた場所で咲きなさい』を紹介しながら、お話をしてくださったものですから、一層、渡辺和子先生を偲ぶ思いが募り、今日こうして、始業式での成田校長先生に続いて、渡辺和子先生のお話をさせていただくことにした次第です。
 皆さんには、渡辺和子先生の著書『幸せはあなたの心が決める』の中から、私が自分の心に染みた一文を二篇印刷し、配付させて貰いました。この二篇を渡辺和子先生の「遺書」と捉えて、人生の指針にしてくれればと思い、配布しました。
 さて、始業式で成田校長先生が紹介された『置かれた場所で咲きなさい』というのは、ノートルダム清心学園理事長・シスター渡辺和子先生の著書の題名です。英文では『Blom whereGodhasplantedyou..』(ブルーマ ホォエアー ゴッド ハズ プランテッド ユー)と書くと、校長先生が教えてくれました。意味は、「神があなたを植えた所で咲きなさい」です。
 そして、本文には続けてこう書かれています。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは、自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神があなたをここにお植えになったのは間違いではなかったと、証明することなのです」と話してくれました。心に染みる良いお話でしたね。 
 皆さんは、まだ成田校長先生のお話が、記憶に残っていますね。(「はい」と一斉に声が挙がる)
 さて、渡辺和子先生に最初に講演をしていただいたのは、新宗連奥羽総支部青森県大会の講師としてお招きさせていただいた時です。当時、初代教主さまが奥羽総支部の会長でしたから、渡辺先生と初代教主さまとの対談も計画させていただきました。素晴らしいお二方の出会いによる対談でした。それから本校の開校三十周記念式典での講演もお願いさせていただきました。その後、青森県私立学校理事長協議会の研修会での講演もお願いさせていただきました。このようにお交わりさせていただけことを心から感謝されます。渡辺先生の気さくで、品のあるお人柄は、思い出せば、今でも魅了させられる思いです。
 渡辺和子先生の死亡記事に、プロフィールが次のように掲載されていましたので紹介します。一月一日付の山陽新聞です。

   

 渡辺和子さん安らかに 岡山で信仰、教育に献身
   ノートルダム清心学園岡山市北区伊福町)理事長の渡辺和子さんが三十日、八十九歳で亡くなった。〈神は決してあなたの力に余る試練は与えない〉。キリストのこの言葉を心の支えに信仰と教育に身をささげ、縁もゆかりもなかった岡山の地で女子の高等教育や私学振興に貢献した。

 

 人を魅了する優しいまなざしからは想像し難い、壮絶で波乱に満ちた人生だった。

陸軍教育総監の父が目の前で凶弾に倒れた二・二六事件は九歳の時、長じてカトリックの洗礼を受け、米国留学を経て、三十六歳の若さでノートルダム清心女子大の学長に抜擢された。それから半世紀余り、学長は二十七年間務め、一九九〇年からは同学園の理事長の職に就く。若い時は責任の重さに押しつぶされそうになりながら、年を重ねてからは自らの病や老いと向き合いながら人の心に寄り添ってきた。
   
 「人生は思い通りになりませんよ」。最後まで立ちつづけた教壇から、ひ孫ほど離れた学生たちに試練に立ち向かうメッセージを穏やかに、しかし、きっぱりと伝えてきた。渡辺さんの母の教えもあったという。
        
    どんな境遇にあっても、そこから逃げてはいけない。境遇をえらぶことができなくても、人にはそれに向き合う生き方を選ぶ自由がある。今いるその場所が、あなたの咲く場所。自らの内面を素直につづったエッセー集「置かれた場所で咲きなさい」が二百万部を超えるロングセラーになったのは、平明な言葉の一つ一つが、苦境を抱きしめるようにして生きてきた渡辺さんの揺るぎない信念に裏打ちされていたからだろう。その生き方は多くの人々の共感を呼んだ。
  

 昨春、旭日中綬章を受賞した際の記者会見の光景が思い出される   
「私にとっての宝は学生たち。学生の前〈教壇〉で倒れることができたら…それが私の一番の願いです」。メモをとりながら「倒れる」という言葉が胸に引っ掛かった。生涯現役を貫く思いは何度か聞いていたが、こんなにストレートな言い回しは初めてだったからだ。その時の違和感のようなものがいま、突然の訃報に接してよみがえってくる。

あの時にはもう、人生の残り時間を意識していたのかもしれない。
    
 昨秋、著書の印税で高校生に奨学金を給付する「渡辺錠太郎記念教育基金」の創設を発表した時もそうだった。最愛の父の名を基金に冠したのも、二・二六事件から八十年の節目に心を期す何かがあったように思われる。

 

 二〇一五年二月から十一月まで山陽新聞朝刊に計六十三回連載した企画「強く、しなやかに 渡辺和子と戦後七十年」の取材で、一年近くにわたってインタビューさせていただいた。そのメモを繰(く)りながら思い出があふれてくる。とりわけ両親の思い出を語る渡辺さんは印象深かった。

 米国留学へ船で旅立つ自分を紙テープを握り締めて見送る母。「映画のワンシーンのようでしょう」。一枚の写真を見つめるその表情は少女のようだった。

 シスター、安らかにお眠りください。 
 

 

 この一文で、渡辺和子先生のお人柄と人生観をご理解いただけたと思います。
次に、今日配付した渡辺和子先生の一文を紹介します。
まず、読んでみましょう。

 

人間関係の秘訣

 人間関係を和やかにするのに、「の」の字の哲学というのがあります。

たとえば、夫が会社から戻ってきて、「ああ今日は疲れた」と言った時に、知らん顔して、その言葉を聞き流したり、「私だって、一日結構忙しかったのよ」と自己主張したのでは、二人の間はうまくゆきません。その時に、「ああそう、疲れたの」と、相手の気持ちをそのまま受け入れてあげることが大切なのです。友人が「私、海外旅行に行ってきたの」と言えば、「あら、私もよ」と相手の出鼻をくじいたり、「どこへ、誰と」と尋ねたりする前に、「そう、旅行してきたの」とおうむ返しに言葉をそのまま繰り返して、相手に共感することが、相手の真の優しさとなります。私たちはとかく自分本位になりがちで、共感する前に自己主張をしがちです。相手が感じていることを、そのまま受け止めてあげる前に「私だって」とか、「私なら」と比較してしまいがちです。

 自分が感じたことのない気持ちには共感できないので、そのためには、いろいろと自分も経験することが大切になってきます。ただ、ここで気をつけないといけないのは、同じような経験でも、他人のそれに対する感情と、自分のそれと同一ではあり得ないという事実です。子どもを亡くしたことのない人より、その経験をした人の方が、今悲しんでいる人に共感を抱きやすいとは思いますが、一人ひとりの経験は独特なものであって、決して同じはありません。

「慰めてくれなくてもいい。ただ、傍にいてください」と言われたことがあります。

ただ「悲しいの」「苦しいの」と受け止めてくれる人ーキリストは、そういう人でした。「の」の字の哲学の元祖だったのです。
    
醒めた目と 温かい心で 生きてゆきたい。

真の優しさとは、共感すること。自分を抑えて

相手の話を聞き、ただ傍にいてあげること。

 人間関係を和やかにするのに、「の」の字の哲学というのがある、と説かれた渡辺和子先生のお言葉は、私たちの日常生活の中で、最も大切で、必要な心配りだと思います。
 たとえば、夫が会社から戻ってきて、「ああ今日は疲れた」と言った時に、奥さんが知らん顔して、その言葉を聞き流したり、「私だって、一日結構忙しかったのよ」と自己主張すれば、ご主人は口を噤んでしまうと共に、ガックリし、疲れが一層募るばかりとなります。それを、「ああそう、疲れたの」と、相手の気持ちをそのまま受け入れる言葉で応答してくれたら、もう元気一杯になって、明るく夕食に臨むことが出来ると思います。そして、その時、奥さまが、「先にお風呂にしますか。お飲み物はビールで良いですか」と言ってくれたら、ご主人は機嫌が益々良くなって、「明日も頑張るぞ」と張り切って、翌日を迎えられると思います。女生徒の皆さんはよく覚えておくんですよ、夫婦は言葉の掛け具合一つで、仲良くもなれば、喧嘩にもなるのですよ。何事も、「の」の字の哲学です。
 このことは、夫婦関係だけでなく、人間関係の基本として理解しておきましょう。
 

 松風塾高校は全寮制ですから、特に「の」の字の哲学を実践する訓練の場として務めてください。そこには、友情の花を咲かせる寮生活が待っていると思います。友人が「私、海外旅行に行ってきたの」と言えば、「あら、私もよ」と相手の出鼻をくじいたり、「どこへ、誰と」と尋ねたりする前に、「そう、旅行してきたの」とおうむ返しに言葉をそのまま繰り返して、相手に共感することが、相手の真の優しさとなります。
こうした相手への真の優しさを伝えられる寮生活にして行きましょう。(「はい」との声が会場に響く)

 

もう一つのエッセイを読んでみます。
 

あなたの近くにも「カルカッタ」はある

 マザーテレザが日本にいらした時のことです。私たちの大学にいらして、待ち構えていた学生たちにお話をしてくださいました。

お話に感動した学生たちの中から、カルカッタで奉仕団を結成したいという声があがり、受け入れについての質問が出ました。マザーはとても嬉し気(げ)に、感謝しながら、こう言われたのです。
 

「その気持ちは嬉しいが、わざわざカルカッタまで来なくてもいい。まず、あなたたちの周辺の『カルカッタ』で喜んで働く人になってください」

 

 それから二年半経った三月中旬、私は広瀬さんという卒業生から手紙を受け取りました。その人は、前年の三月に大学を卒業して、県内のある高校で国語の教師をしていました。自分が教師になって初めて送り出した女子生徒の一人が、卒業式後にこう言ったそうです。

「広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」

そう言い置いて校門を出ていった生徒の後ろ姿を見ながら、広瀬さんは思いました。「私がしたことといえば、授業中に目が合った時、あの子に努めてほほえんだことだけだったかも知れない」と。

その女子生徒は、学業にも家庭にも問題を抱えていて、他の教師たちには「お荷物」と考えられていたそうです。

他の教師たちから無視されていた生徒に、広瀬という新卒の国語教師は、目を合わせることを恐れず、しかもほほえみかけることによって、その生徒の存在を認め、見捨てなかったのでした。

 私が特に嬉しかったのは、広瀬さんは、かつてカルカッタへ奉仕に行きたいと申し出た一人だったということでした。彼女は、マザー・テレサとの約束を守って、自分が教えるクラスの中の「カルカッタ」で立派に働いてくれていたのです。私たちの周辺にも「カルカッタ」があります。それは案外、家庭の中で相手にされていない老人かも知れません。学校でいじめられたり、無視されている子どもたち。職場で、社会で、仲間はずれされている人々。生きがいを失って淋しい思いで生きている人たち。そのような人たちに、ちょっとした優しい言葉、動作、温かいまなざし、ほほえみを差し出すことを忘れていないでしょうか。
 「みんな、自分が一番かわいいのよ」と、私の母は、私が落ちこんでいる時に、慰めとも、戒めともつかない言葉を言ってくれたものです。そんな時に、ほんの少しの優しさ、ほほえみ、言葉がけで、今まで何度癒やされ、力づけられてきたことでしょう。私たちは、自分自身も「カルカッタ」にいる時があるのです。ですから、お互いに手を差し伸べることが大切なのです。
    
      ほんの少しの優しさ、温かいまなざし、ほほえみ、
      言葉がけが、淋しい人を救う。
      世の中を変えるのは、「あなたが大切」という
     ほほえみがけや優しい小さな行動かも知れない。
  

 

  心に染みてくる一文ですね。「カルカッタ」はインドだけでなく、私たちの生活の場にもあるというのです。
  「それは案外、家庭の中で相手にされていない老人かも知れません。学校でいじめられたり、無視されている子どもたち。職場で、社会で、仲間はずれされている人々。生きがいを失って淋しい思いで生きている人たち」
こういう人たちが、私たちの生活の場にいませんかと、マザーテレサは発問し、その人たちこそ「あなたの周辺にある『カルカッタ』です、その人たちのために喜んで働く、奉仕する人となってください」と、お話ししてくださいました。
そして、この話を聞いた女学生がやがて高校の国語の教師となり、一年が過ぎ、初めての卒業式を迎え、初めて送り出した女子生徒の一人から、「広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」と言われた。そして、その女子生徒は、そう言い置いて校門を出て行ったというのです。
 広瀬さんは、その生徒の後ろ姿を見ながら、「私がしたことといえば、授業中に目が合った時、あの子に努めてほほえんだことだけだったかも知れない」と思ったそうですが、その生徒と目が合った時にほほえんだそのことが、その女子生徒の生きる力となり、希望となり、無事に卒業させることになった、というのです。しかも、その女子生徒は、学業にも家庭にも問題を抱えていて、他の教師たちには「お荷物」と考えられていたというのです。だからこそ、広瀬先生だけは、他の教師たちから無視されていたその女子生徒に、国語の授業の時はその生徒と目を合わせることを恐れず、しかも、ほほえみかけることによって、その生徒の存在を認め、見捨てなかった、というのです。その優しさが、その思いやりが、その女子生徒に無言のうちに伝わり、卒業式後に「広瀬先生だけは、私を見捨てないでくれた。ありがとうございました」と言って、校門を背にして卒業させていく力となったというのです。それが広瀬さんの周りにある「カルカッタ」であり、その中で喘ぎ、苦しんでいた心貧しき人のために働くことで、その人たちの心を豊かに成長させ、希望をもって生きて行けるように育てていくことが出来たのです。このような素晴らしいお話を渡辺和子先生は、『あなたの近くにも「カルカッタ」はある』というエッセイで書いて遺していってくださいました。
 この二つのエッセイを、八十九歳で国替えされた渡辺和子先生の遺言のエッセイとしてとして皆さんに贈らせていただきましたので、その意を汲んで、大切にし、生きる指針としてくださればと思います。